四日市の由来や、歩んできた歴史をご紹介します

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歴史探訪

三重県四日市市歴史探訪
四日市市の概要
四日市市は、県の北部に位置し、東は伊勢湾、西は鈴鹿山系に至る気候温暖なまちで、三重県下最大の商工業都市です。2005年2月には、楠町と合併し30万都市となり、県内初の中核市移行をめざしています。

江戸時代には東海道の宿場町として栄えた歴史をもち、明治初期には四日市港を起爆剤として工業都市として発展しました。現在は臨海部に展開する石油化学コンビナートや、近鉄四日市駅周辺の県内最大の商業地域を核に、中京圏有数の産業都市として知られています。また、名古屋まで電車で約30分という好条件から、名古屋への通勤・通学者が多くみられ、市内北西部の郊外に開発された団地は、名古屋のベッドタウンに近い状況となっています。

1960〜70年代に発生した「四日市ぜんそく」で、全国的に「公害のまち」として全国的に有名になってしまいましたが、現在では、法整備や汚染防止技術向上などの対策が格段に進み、郊外には田園や茶畑が広がる豊かな自然が望め、都会と田舎の長所が融合した住み易いまちに変貌を遂げました。

ちなみに県名である「三重」という言葉は、四日市の足洗池(四日市市御館)で日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、「足が三重に折れるほど疲れた」と詠んだ歌からついたものだそうです。

四日市のあゆみ
古くは、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の帰途に通過したという伝説が残っています。すでに旧石器時代から人々が住み始め、縄文から弥生時代の遺跡も数多く、土器窯や土器片出土地が分布しています。市内各所に古墳が築かれ、なかでも志氏神社古墳は市内唯一の前方後円墳として知られています。また、飛鳥時代には壬申の乱で大海人皇子が兵を集めたと言われています。

8〜10世紀には智積廃寺や上品寺の釈迦如来坐像など四日市地域への仏教文化の広がりが認められ、また、多度神宮寺伽藍縁起并資財帳(たどじんぐうじがらんえんぎならびにしざいちょう)によれば、条里が整備されていた様子がうかがえます。

平安から鎌倉時代には、伊勢平氏の活躍の舞台でもありました。それだけに鎌倉、南北朝、室町時代には、時の指導者がその被官を北伊勢に配置していました。文明5年(1473)の外宮庁宣に「四ヶ市庭浦」の地名が出てくることから、この頃すでに定期市「四日市」が立っていたことがうかがえます。

安土桃山時代になると、天然の良港によって回船業が発達し、市場が出来ます。市場は『四』の付く日に開かれたため、これが『四日市』の由来になったと言われています。本能寺の変では、逃亡する徳川家康を四日市の回船問屋が手助けし、その恩として幕府の直轄領(天領)になったとされています。しかし実際は、家康自身が陸海の要地であると認めたためと考えられています。

江戸時代、天領となった四日市は、東海道の主要宿場として「宿場町」「陣屋・代官所の町」ができ、北勢の行政・商業の中心地として知られるようになりますが、江戸末期に起こった安政の大地震によって港が壊滅し、回船業が衰退していきます。

幕末から明治にかけ、菜種油や肥料の生産や取り引きの盛んな町として栄えました。その後、四日市港が修築されるとさらに勢いを増し、生糸、紡績を中心とした繊維工業、機械工業や化学工業の進出が相次ぎ、日本の近代工業化への歩みを模したかのように、四日市地域が商工業の都市に進展していきました。

明治30年(1897)になると市制を施行し、昭和5年(1930)に塩浜、海蔵の両村を合併して以来、昭和32年まで周辺の町村を併合し、ほぼ現在の市域となりました。

昭和30年代以降は、日本初の石油化学工場等の進出により、大気汚染等の公害をもたらしましたが、その後、環境浄化に努力し、平成17年(2005)2月、さらに三重郡楠町を編入し、30万都市となりました。現在では、自然との調和を目指したまちづくりにまい進しています。


四日市の名前の由来
四日市市の地名の由来は、四のつく日に市がたったことからで、現在も各地で市が開かれています。


四日市の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓
四日市市立博物館
住所: 〒510-0075
三重県四日市市安島1丁目3-16 [地図を見る]
電話番号: 059-355-2700
開館時間: 9:30〜17:00(入館は16:30まで)
休館日: 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
入館料: 常設展/大人210円、高大学生160円、小中学生100円
プラネタリウム/一般530円、高大生370円、中高生200円







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